カールの曲がった地平線

都内在住31歳の独身サラリーマンが、日々木工や読書、散歩などを楽しみつつ、いつか脱サラして小屋暮らしや旅暮らしをすることを夢見るブログ

『現代思想の冒険/竹田青嗣(ちくま学芸文庫)』

哲学に興味がおあり?(個人的な話)

 僕は青年時代を通して哲学に興味がありませんでした。それどころか無意味だと思っていました。なぜなら、哲学は「人間とは何か」「死とは何か」といった答えの無さそうな問題を延々と考えて堂々巡りし、古代から一向に進歩してない思ったからです。また、仮に哲学的な問題に答えがあったとしても、それは万人に共通の答えではなく、きっと人それぞれに異なったものになるのはずで、この何ら普遍性の無い「人それぞれに異なった答え」に、当時は釈然としないものを感じていました。
 なので、国語や歴史といった人文系の学科が嫌いでした。ある一著者の主張を僕が知ったところでそれが何になるというのか?また、過去の歴史を知ったところでそれが僕と何の関係があるというのか?どうにも自分とは隔絶された、無関係の事柄に思えて、勉強の意欲が湧かなかったのです。
 これに対して、僕を魅了したのは科学でした。科学は観測によって得られる客観的なデータを基にして推論を行い、成果を積み上げ、世界を統制しているルールを探っていきます。自分の頭で考えていば、確固とした真実が分かるという実感に、僕は安堵しました。

 しかし、科学を勉強するにつれて、確かに世界のことが分かってくるという実感の一方で、なぜかそれは自分とは直接関係の無い世界のことのようにも思えてきました。生活感情が伴わないというか、なんだか欠乏感のようなものがありました。その理由はたぶん、科学が万人に共通な客観的事項を扱うものだからです。客観的であることは、それは誰にも同様に理解できるということです。すなわち、個人の特殊な事情はそこにないのですから、言ってみればそこに自分の存在はないのです。
 長く生きていると、幼年期とは大分興味の対象が移ってくるものだと驚きます。死を意識するし、それ故生を意識します。普段の生活の是非とか、人生が僕にとって何を意味しているのかとか、そもそも自分とは何なのかとか、自分の土台を作り上げた日本とはどのような国なのかとか…、色々なことが気になってきます。これらは、全て僕の個人的な問題ですが、だからこそ避けて通れないものだと思われてきたのです。

 このようにして、自分、そして自分を取りまく社会や世界が気になってくると、文学作品を読んだときにまるで自分のことのように共感することが起こるし、歴史も俄然面白くなってくるし、そして、それらの背後に思想の大きな川とでもいうものがゆるゆると流れていると感じられることがあります。そんな折に手に取ったのが本書でした。

現代思想の冒険 (ちくま学芸文庫)

現代思想の冒険 (ちくま学芸文庫)

この本について

 本書の最終的な目的は「思想という行為は人間にとって何なのか?」について、少しでも実感が残るように示すことだとされています。
 本書の前半では、近代哲学からポストモダンへ至る道筋が明快に書かれています。また、現代における哲学の状況を説明し、現代思想が新たに提示している問題を紹介しています。本書の後半では、困難に直面している現代思想から、人間や社会の意味を見出すための新たな方向性を探っていきます。
 一冊を通して、大変スリリングな哲学の入門書となっており、哲学がなんだか身近で面白く思われてきます。哲学は同じ問題を堂々巡りをしているのではなく、いつも新たな深刻な問題を提出しているんだなと思いました。以下、消化不良の感は否めませんが、前半部分について概要を書いてみます。

概要

近代思想

デカルト、カント、ヘーゲルマルクス

 デカルトは、神の存在を後ろ楯にして人間の認識に真理の保証を与えようとしましたが、カントはこれを一歩進め、神に頼らず「物自体」という概念を考えることによって、客観的な認識が可能であるとしました。つまり、人間は「物自体」を知ることはできないが、人間の認識機能は「物自体」から人間に共通の(感覚器などの)制限を受けたものなので、万人に共通な客観的な認識ができるのだとしました。
 デカルトやカントにおいては、人間の理性の扱う主題は自然の認識と人間の内的な精神に限定されていましたが、ヘーゲルはこれを社会へと拡張し、人間の理性的精神が社会全体を問題にし、それを動かすことを考えました。
 ヘーゲルにおいては、労働と教養を適切に積んでゆけば、誰しも自らの道徳を社会化させていくことができるとされましたが、マルクスは、ヘーゲルの哲学を踏まえながらも、これに異を唱えました。労働は個人のある種の表現であり、労働によって人は他者と関係を結んでいますが、そこに貨幣の原理を考慮すると、労働は単なる賃金に還元されてしまうと言います。このことから、マルクスは貨幣の原理が重要な矛盾を社会にもたらすことを実証的に突き止めようとしました。

 マルクスヘーゲル主義は、当時の貨幣経済の世界に生じていた様々なひずみを上手く説明し、その矛盾を解決するために目指すべき世界像を明確に提示しているため、多くの人に支持されました。しかし、時代が進むにつれて明らかになっていったことは、マルクスの想定と外れたことでした。社会主義国家の悲惨さが浮き彫りになり、また資本主義がいまだに崩壊する気配が無いことなどから、マルクスヘーゲル主義は説得力を失っていきました。

キェルケゴールニーチェ

 さて、近代思想には上記の流れとは全く対極の流れがあります。それがキェルケゴールの実存哲学や、ニーチェの思想です。ヘーゲルマルクスにおいては、人間の理性的な精神がいかに社会と関係するかを問題としていましたが、キェルケゴールは個人の内面に目を向け、人間の生には、どうしても社会の意味に還元できない「存在本質」があるといいます。これは、人間が死によって限界を持ち、一人ひとりが他者と交換し得ない固有の課題を抱え込んでいることに由来します。そして、社会の問題は実は固有の生(=実存)の問題に還元されえるが、逆は還元され得ないといいます。つまり実存こそが、人間や社会を考える上でより本質的なものということになります。
 ニーチェキリスト教を弱者のルサンチマン(恨み)から生じたものだと批判しましたが、同様にこれまでの西欧哲学についても批判しています。それは「世界のかくあるべき理想を説いたもの」だからです。つまり、この世界は様々な苦しみや不幸に溢れていますが、そこで西欧哲学者たちが次に考えたことは「従ってこの世界は誤った世の中であり、それは正しい世界に変えられなくてはならない」であり、そのことによってニヒリズムを必然化していく一切の問題を生むことになるからです。平凡な言葉で言うと、西欧哲学もキリスト教も、現世を誤ったものとみなし(直視せずに)、手の届かないはるか遠くに理想的な世界を描いていると言う点で共通しているのです。
 ニーチェはこう問題を見破った上で、新たな価値観の創造についても大きな思想を残しました。マルクス主義が世にもてはやされていた頃、ニーチェの思想は全く顧みられませんでしたが、マルクス主義の衰退後にその重要性が見直され、ポストモダン思想の源流になりました。

ポストモダンの思想

構造主義

 構造主義は、現代思想ががヘーゲルマルクス主義から離れていく転換点となった思想であり、ヘーゲルマルクス主義へのアンチテーゼとしての意味合いがあります。
 構造主義ソシュール言語学の方法を下敷きにしており、この方法によって物事の普段は意識されない(普遍的な)関係性や構造を取り出します。
 マルクス主義における社会構造のイメージは、『人間社会の諸制度は(階級間の闘争のような)利害的な力関係によって動いてきた』ということになりますが、構造主義では、『人間社会の諸制度と、経済上の動機との間には、上述の普遍的な関係が挟まれており、この人間の無意識が作り上げている目には見えないルールが、むしろ社会制度の動きに大きな役割を果たしている』という社会構造の新しいイメージを提出しています。
 このように、構造主義は、社会や人間のあり方を、目に見える諸制度とその動機によって説明するのではなく、むしろその背後に隠されている、より普遍的な構造として捉えようとするモチーフをもっていました。

ポスト構造主義

 構造主義は、従来のマルクスヘーゲル主義の社会構造の基本的イメージを相対化する目的を持って出現したものですが、それは完全なものではありませんでした。ポスト構造主義は、構造主義(や記号論)が持つ方法上の内在的な限界に注目し、それを乗り越えようとするために現れました。ポスト構造主義の思想家たちは、共通の思想を持っているわけではないのですが、著者はその中の大きな軸として以下の二つ挙げています。
 一つはフーコの「歴史学」やデリダの「脱構築」に代表される軸。脱構築とは、一つ文の中に、これと対峙するもう一つの意味を読み取り、前者を後者によって相対化していく方法です。脱構築を通じてデリダが言おうとすることは、『言葉による厳密な認識の不可能性』ということであり、「言葉によって現実世界を正確に言い当てられる」とする西欧哲学の基礎を破壊することでした。マルクス主義の発想も、世界の正確な認識を最大の前提としており、そこから人間が社会に対して何をすべきかを規定するものですから、ポスト構造主義の投げかける「認識への批判」は、マルクス主義の大前提を根底から覆すものでもありました。

 もう一つの軸は、ボードリヤールドゥルーズに代表される現代社会認識です。マルクス主義では資本主義は崩壊するとされていましたが、現実には(問題はありますが)続いています。これは資本主義が自壊の危機をなんらかの形で処理をして乗り越えているからであるとボードリヤールは考えました。そして、「資本主義は崩壊しない」という前提の下で推論し、新たな世界像を提出しました。
 そこでは、人間を含めたあらゆる物事は、社会的な関係の実体を写したものではなく、「システム」内での単なる記号だとされます。そして、現代社会では、あらゆる欲望が「他者との比較」に所属しているので、欲望は社会を変革しようとする契機を生まず、ただ消費=生産というシステムの一要素としてしか機能しないとされます。
 こうして、一切のものが、システムの要因として機能していくような、完璧な閉鎖性を持つ世界像が描かれます。現代の高度資本主義社会では、その操作を行う人間的主体がもはや存在せず、社会それ自身だけがシステムを自動運動させていく主体なのです。

現代思想の難問

 以上、ポストモダン思想の二つの軸を見ましたが、そのどちらもが深刻な問題を提出しています。
 例えば、脱構築の方向からは、「認識への徹底的な批判によって、もはやこの世界を言葉(思想)によって正確に把握することが不可能で無意味である可能性があること。どんな思想も確定的な社会の構造を見出せないのであれば、人間はそれぞれが別々の世界を思い描いている孤立した存在であり、その間を繋ぐ手段は存在しない」こと。
 また現代社会認識の方向からは、「人間の生は社会によって可能となるが、その社会という原理が人間とは関係の無い閉鎖的な自動運動だとするならば、社会と言う原理が存在する限り人間の生は否定的な意味合いを持たざるを得ない」こと。

 このように現代思想は行き詰っており、新たな方向性は(本書の著された1987年時点で)誰も示せていないとのことです。
 本書の後半において、著者は現代思想の難問を前提としつつ、現代思想では拾えていなかった新たな要素に着目し、人間と社会の存在の意味やありようを考えていきます。