カールの曲がった地平線

都内在住31歳の独身サラリーマンが、日々木工や読書、散歩などを楽しみつつ、いつか脱サラして小屋暮らしや旅暮らしをすることを夢見るブログ

現実感について

ときどき現実感が薄れることがある。とくに心身的に弱っているときに多いのだが、頭ではこれ以外にどんな現実もないと分かりつつも、なんだかここが現実ではないようで、そして自分の存在が欠けているようで、周囲がぼんやりと感じられるのだ。


恋人にフラれた後にしばらく塞ぎ込んで、周りが色を失ったように感じられることや、何かを猛烈にやりきった後に、しばらくの間、自分が空っぽになったようで気力が出ないような場合と似ているような気もする。だから、これは自分だけではない現象だと思うが、まあ時々こんな風な状態に陥る。そして現実感が感じられないことを不安に感じる。


ところで、この現実感の喪失は、あたかも現実感というものが、現実感を司る感覚器から生じていて、この感覚器が心身の不調とともにうまく機能しなってしまうかのようだ。


現実感とは「個々人の内面で作り出される感覚である」と考えることができる。つまり、感覚器が受ける色々の刺激に対して、経験的、慣習的な推論や解釈などを行うこと、また、推論や解釈といったいわば2次的な操作を行う前の、感覚器自体の働きによって、現実感が作り出されると考えることができる。だから、現実感を司る感覚器が実際にあるかないかは別として、現実感というのは、人間の個体から離れたところに原因があるものではないといえる。


人間は感覚器の生み出す感覚以外には何も感知することができないのだから、人体の外部にあるかもしれない現実などは本当は知りようもない。原理的に知りようもないことを実際に存在しているもののように扱うのはおかしい、と考えると、現実というものも個人を離れて存在するものではないといえる。


ところで、これとは反対に、現実は個人を離れて存在するものだと考えることもできる。なぜなら個々人が意識したり、解釈したりしなくとも、日は毎日昇るだろうし、季節は巡るだろう。このような物理現象は自分と無関係に存在するように思えるし、他人の行動や言動、存在などもやはり自分がどう思おうとちゃんと存在しているようにも思える。仮に自分が死んでしまい、この瞬間いなくても、世の中は何事もなく進んでいくだろう。


そう考えると、なにか現実という箱のようなものがちゃんとあって、人々がその中で生活し、現実を感覚器を通して感じている、という考えもなかなかしっくりくる。


さて、個人的には前者の考え方をより信じているのだが、結局のところはこれはもうどちらでもいい。現実が個人の中にあるか外にあるかは、どちらかに決定できる種類の問題ではないと思う。それよりも重要な点は、「たしかな現実感があるかどうか」ではないだろうか?


「いや、個人的な現実感よりも、事実としての現実が大事だ!」と思うかもしれないが、僕はそんなことはないと思う。仮に「個人を完全に離れた事実」があったとして、(あると仮定すると無数にあることになるが、)それらを逐一知ることが果たして人間にとって嬉しいだろうか?


きっとそうではない。人間は無数にあるこれらの事柄(たとえば日本の適当な場所に転がっている、ある一つのとるに足らない石ころの形や色などの性質といった)のどれにも興味を示すのではなく、明らかにそのなかの特定の事柄を興味の対象としている。


それは一言でいうと「自己に関係すること」である。自己を広げて、自己の所属するあらゆる単位の社会的な集団まで含むとより適切だ。つまり、人間がリアルな現実感をもって感じることができることは、あくまで何かの形で自己に関係するような事柄ではないだろうか?(逆に言うと、全く自分に関係ないことを、どうして知る理由があるだろうか)そして、上述のようにある特定の事柄を好き好んで知りたがる性癖のために、人間が知ることができる現実は必ず色眼鏡でみたものとなる。だから、個人を完全に離れた事実などはむしろ決して知ることができない事柄なのではないだろうか。


現実感が薄い状態はひどく苦しい。なんだか本当でない別の世界のように周りがかすんでいる。いやかすんでいるのは周りではなく自分の方かもしれない、とすると自分が本当に存在しているのか怪しくなってくる。自分が何者か分からなくなってくる。これはつらい。現実感の喪失は自我の喪失につながってくるのだ。


だから、繰り返しになるが、重要なのは「現実かどうか」よりも現実感があることだ。このことによって、自分が確かに存在しており、生を享受しているという実感を持つことができる。


最後に、結論としてはごく平凡なものだが、現実感が大事なので、なるべく現実感を感じられることをしたほうが色々とよいということだ。それには、自分が主体的に楽しみながら、熱中してできることをすることがいいと思う。僕の場合は、旅行、工作、絵を描くこと、人と話すこと、など。こういうものによって、僕の現実は作り上げられ、僕の存在は世界につなぎとめられるような気がする。