カールの曲がった地平線

都内在住31歳の独身サラリーマンが、日々木工や読書、散歩などを楽しみつつ、いつか脱サラして小屋暮らしや旅暮らしをすることを夢見るブログ

論理と本当のあいだ

hikaroon.hateblo.jp
では、人間にとって感情が理性を統制する源であるという主張をしました。そう考えることが僕は好きだ。感情の方が根源的な資質だとするならば、なぜ後発の理性がそれを統制などできるのだろうか?


このテーマは興味があり、大切だと思っているので、また別の角度から説明をこころみることにしました。

論理とは

論理とは何だろうか。手っ取り早く言うと、それは一つの経験則だ。(もっとも、人間が事実と思っていることで、経験則でないものはそもそもないのだが。)よりきちんと書くと、論理とは、人間が思考を行う上で大体の場合においてあてはめている形式を抽出したものである。


ここで「大体の場合に」と書いた訳を補足すると、人間はときとして矛盾した思考や行動をするもの(僕は矛盾した思考を行う自由が人間にはあってもいいと思う)だし、数々のパラドックスや、禅問答めいたものだって、生活上で直面するからだ。


つまり、論理とは人間が行う思考の公式の中の一部分を取り出したものに過ぎない。こうして取り出された論理的ルールが、本当に人間の思考を表している保証はない。

論理からは新しいことは導き出せない

しかし、保証はないといっても代替案もないわけなので、差し当たりそれは使いましょう。

それはこういうものだ。A,Bという二つの命題*1があるときに、ここから他の命題を作る演算がある。

  1. AかつB
  2. AまたはB
  3. Aでない
  4. AならばB

これらの新しい命題の真偽はA,Bの真偽にしたがって決定される。また、「すべての○について~」や「少なくともひとつの〇について~」という形の命題の真偽も決まっている。


この論理ルールが全てであれば、ある命題の真偽が決まっていると、ここから論理演算によってしたがう他の命題の真偽も既に決まっていることになります。


だから、この場合、新しい事実というのは全く起きないことになる。ある命題から証明できる命題は全て証明しきっているからだ。人間に、無限回の思考を瞬時に行う能力があればこのようなことは可能なのだから(無限とか言い出しちゃって真実味がありませんが)、「論理的に新しい事実が導き出せた!」と感じるのは、一つには人間の思考の有限性に根差していると考えられます。


ちょうど、一度に世界をくまなく見ることが不可能であり、一点しか凝視できないように、一度に一つのことしか考えられない、そのことに由来しているのです。

論理からは「意味」が見いだせない

しかし、思考の有限性だけではまだ説明がつかないことがある。どうして人間は、ある命題が「正しい」と思えるのだろうか。そして、これは論理的な働きなのだろうか。


ある命題が真(または偽)だったとしても、それは論理的には正しい(あるいは間違っている)を意味しない。意味をもたないただの0,1(「真偽」という言葉を使うとイメージがついてしまうので、こう表現した)があるだけだ。両者を勝手に結び付けるのは人間である。


単純な例で説明すると、

  • 「お腹が減ったから、リンゴを食べる」
  • 「お腹が減ったから、リンゴを食べない」

はどちらも論理的には正当だが、なぜか後者はおかしく思える。それは「お腹が減ったら、何かを食べるものだ」という前提が人間にはあるからだ。ではなんでそんな暗黙の前提があるのかというと、「全く何も食べないと人間は死んでしまう」という前提があるからだ。しかし、論理的には別に死んじゃってもいいじゃないか。突き詰めると、「生きることは正しい(生きたい!)」という論理を超えた一つの感情めいたものに行きつく。


この観点から言うと、純粋な論理を超えた(論理からは導かれない)ところに人間の存在があると考えられる。一方で、純粋な論理の圏内は、人間に限定されない普遍的なものだ。なので、人間は論理の圏内からはみ出つつ、この圏内を他者と共有している存在ということになる。

論理を超えるもの

純粋な論理だけでは何も新しいことは出てこない。とすると、人が日々新たな発見をしたり、推論によって新たな事実を見つけられるのはとても不思議だ。


この論理を超えた部分に、感情、解釈、経験、信仰といったものがあると僕は考えます。あることを「正しい」と思うこと、それは一つの感情だし、逆に感情は「こうあるべき」ものを教えてくれる。思考の根拠になります。


また、感情は一つの経験となり、反対に過去の経験が新たな感情を呼び起こす。ときには、予期しない事件を突如として経験することもある。こういった感情や経験を、解釈することで新たな意味を見出していく。


例えば「〇万年に一度の確率で地球に巨大隕石が衝突する」という命題には何も感情的なものはないぞ!と考えるかもしれないが、そうはいかない。どうして無数にある命題の中からこれをより抜いたのだろうか?それは人間に関係することだからである(端的には、人間の生命に)。だから、やっぱり純粋な論理からはみ出た何かがある。


このように、人間が普段行っている論理的推論は、感情、経験、解釈なしには成しえない。反対に、完全に論理的な推論を行っているように思えても、実際には論理の圏外にある要素が常に入り混じっていることになる。


人間の存在が論理を超えたものであるならば、世界もまた論理を超えたものではないだろうか。物理法則だけを考えてみても、それは世界の近似に過ぎない。人間の精神世界までも含めたら、世界はとてつもなく膨らんでいく。

おわりに

何かが「分かる」というのは、論理的な推論によることだってもちろんあるけれど、論理だけでは分かりようもないことだってある。こう考えることは大切だと僕は思う。


なぜなら、いろいろなことを経験して、様々な感情を体験し、自分の物の見方・解釈を作り上げていくということが、生きて世界を知るために大事なことだと思い出させてくれるからです。


人間誰しも、他人とは異なる一回きりの自分を生きている。遭遇する事件は特別で、何の一般性もないことだってあります。このとき、論理の力によって普遍性を追求することは大切だと思います。しかし、同時にその特異性を追求することもまた大切なのではないでしょうか。

*1:通常は真偽がきちんと決まっているものをいいます