こんにちは、Carlです。最近は仕事が忙しく、なかなか更新できません。もっとも、自分のペースで書けばいいのですが、時間が空くと何を書きたかったのかを忘れてしまうのは困りものです。たとえメモを残していても、ケロリと忘れてしまいます。メモからその時の考えを論理的に辿れることもありますが、どうしてこれを問題だと思っていたのかという問題の核が失われてしまい、表面的な論理だけが転がっていくような気がしてきます。
ま、忘れるくらいだから、大して重要ではなかったんでしょう。もしくは、その時考えることによって、自分の腑に落ちたために、メモの役割は終わってしまったのかもしれません。そう考えて放棄しようとしましたが、書き始めてみると、また新たな発見があるから不思議です。本当に書くというのは面白いですね。
無いと思っていた嫉妬心
それは一通のメールから起こりました。そのメールは、久しく連絡を取り合っていない知人からのものであり、そこには、彼が留学の権利を手に入れたこと、もう直ぐ海外へと出発することが淡々と書かれていました。
そのとき、僕が観察した自分の心の動きは次のものでした。まず始めに嫉妬心が起こり、次に嫉妬は良くないなと思い直し、何かの根拠を見つけて彼の結果は当然のものだと思い、そして友人を祝福する気持ちへと変えていく。これは(個人的に)大きな発見だと思いました。
それまで僕は、他人に興味が無い人間だと自分で思っていました。昔より「人は人、自分は自分であり、他人と自分を比較してもしょうがない」と思ってやってきたのだし、他人と比較することによって、時に優越感、時に劣等感を感じて、自分の精神が高揚、あるいは阻喪するのはばかばかしいと常に思ってきたからです。
だから、自分は他人の言動に一喜一憂することとは全く無関係だと思い込んでいました。しかし、実際はそうではなかったことに気付いたのです。そうでないと、この嫉妬心は説明がつかないではないか…。
よくよく過去を思い出してみると、ときに他人のことで並々ならぬ動揺を受けたことがある気がしてきました。他人と書きましたが、それは友人が多いようです。きっと自分と距離が近く、比較しやすいからでしょう。
一例を挙げると、
- 語学ができ、外国人の彼女もいた友人
- 自分よりも才能に溢れた学友
- 博士になった友人
等など。考えれば考えるほど、自分がいかに嫉妬深い人間なのかが見えてきました。いやな奴だなあ、友達のことくらい素直に祝福してやれよ、と僕の常識的な心が自分を諭します。
今まで気付かなかった気持ち
さて、それにしても、上述の嫉妬心(動揺)に今まで全く気付かなかったのはなぜだろう。きっと今までも、今回と同様に、「比較してもしょうがない」と思い、「この結果は当然だ、だって、奴は僕より努力しているじゃないか」と自分に言い聞かせ、くらくらする頭を鎮め、「嫉妬するなんて暗いやつだ、祝福してやれよ」と自分を諭してきたのだろう。ただ、あまりにもそのプロセスを隠すのが上手く、また無自覚だったために、今まで気付かなかったのだろう。
そもそも、僕は昔から「人と自分を比較してもしょうがない」と思ってきたわけですが、そういう思考こそが暗に「常に人と自分を比較している」ことを示唆しているのではないだろうか。本当に比較していない人は、そもそも「比較してもしょうがない」などと決して思わないだろうから。
これは余談だが、このような逆説は他にもある。
- 緊張しないぞ、と思えば思うほど、逆に緊張してしまう(暗に緊張することを意識してしまう)。
- 関わりたくないなーと思っている人を、しょっちゅう気にしてしまう(その人の存在によって、ある意味縛られている)。
- また、皆の平等を何かにつけて主張するのは、現実には不平等を感じているからである。
はい、余談終わり。
この処理は好ましいだろうか?
さて、それでは今のやり方は果たして好ましいと言えるだろうか?少なくとも、それは根本的な解決ではないし、歪んだ精神状態のように思われる。なぜなら、現実に嫉妬心は生じているのであり、それを後から訂正して隠したとしても、嫉妬心が生じる根本原因が取り除かれたわけではないからだ。また、自然な状態で生じた嫉妬心を後から隠すことによって、自分の本来の気持ち自体がだんだんと薄れ、見えなくなっていくからだ。
このやり方の背後にあるのは、まずは劣等感、そして倫理に背く罪悪感、それへの後悔、そして自分を良く見せようとする虚栄心だといえる。このような精神状態が、自然で自由なものであるとは到底思えない。
解決策はあるか?
では、どうしたらいいのだろうか?
今のところ考え得る最良の答えとしては、動揺しないように奮闘することではなく、むしろ他人と比較し、動揺してしまう自分の精神を素直に認めることだと思っている。嫉妬したって、別にいいじゃないか。自分を必死に鎮めて「おめでとう~♪、よかったね!」なんて言っても卑屈な印象しかないだろうが、「いいなー」とか、「けっ、面白くない!」と自然に思える方が、もちろん幼稚かもしれないが、素直で明朗だろう。
動揺を認めてしまうと、それゆえに動揺はもはや動揺たり得なくなるだろう、というのも大変に逆説的だ。