岡潔の思想について
【目次】
1.はじめに
岡潔(おかきよし、1901-78)は大正・昭和期に活躍した日本の数学者で、多変数複素関数論の分野で当時未解決だった三つの難問を全て一人で解決するなど、顕著な功績をのこした人物です。奈良女子大学で教鞭をとる傍ら多くのエッセイを世に出し、また、一風変わった風貌や性格のために、今日もっとも世間に知られた数学者の一人といえます。
一流の数学者でありながら社会や人間に深い興味を持って洞察を凝らし、多数のエッセイを書き残した人物は珍しいと言えるのではないでしょうか。似た人物を思い浮かべると、物理学では寺田寅彦、数学者では遠山啓や小平邦彦、上野健爾などが近いのかもしれません。しかし岡潔の場合には、エッセイの内容が教育論を中心としていても、日本と西洋の文化や文明の比較とか、日本人の本来あるべき姿、道義、宗教といった、思想的な領域への広がりがあることを思うと、やや異端という感じを受けます。
昨年のこと、図書館で偶然岡潔のエッセイを読んで大変面白かったので、氏の思想をここで簡単に紹介してみたい。『岡潔――数学を志す人に』(平凡社)というエッセイ集。薄い本だけれど、よく精選・配列してあって、岡潔の思想の全貌を垣間見た気がしました。
2.エッセイの紹介
『生命』
『生命』(1965年、65才)には岡潔の思想がコンパクトに言い尽くされているように思う。岡は、人の心はそれぞれが異なる固有のメロディを持っていて、それが活き活きと鳴る者もいれば弱々しい者もおり、人の心の琴線の鳴り方は「情緒」と深く関係する、と言う。ここで出てきた「情緒」というのはあまり馴染みのない言葉だが、岡の思想を理解するためのカギであり、「非常に澄んでいて調和している心の状態」程度の意味です。
さて、活き活きとしたメロディを鳴らすためには、一つには外部からの雑音を遮断することが大切であり、もう一つには、内部からの腐敗を防ぐことが大切だという。そのためには清浄なもの、美しいものを栄養として与えることが重要であり、具体的には、「道義を教えること」や「他人を喜ばせることを第一に考える心を育むこと」、加えて、「先人の残した文化など、色々なものの良さを教えること」としている。
ところで、こうした人間像は確かに美しく、理想としては素晴らしいが、一体今の世の中でどこまで理解されうるだろうか。地域社会の結びつきは弱まって孤立し、能力主義が進んで他人をいかに出し抜くかが関心になる。社会の変化が激しく、日々魅力的な物事が現れるから、過去を振り返る必要もない。岡の主張は多くの人にとってもはや「わからない」ものになっているのではないか。
「わかる」ということに対しての岡の考えかたもまた独特なものである。岡は、言葉でわかっても仕方がないのであり、対座しただけで気脈が相通じるようなのが本当のわかり方だと言う。また、言葉では言い表さないけれど実際に使うことができるのと、言葉ではわかるが使うことができないのとでは、天と地ほどの違いがある、とも言っている。これも、非常によく分かり、共感もするのだが、現代の世の中ではむしろ「言葉で言い表せないものは分かっていないものである」という考えが普通ではないだろうか。「わかる」ということについての社会通念を見直すきっかけになる、面白い考え方だと思う。
最後に岡は、人が文化に同化してこそ、文化はその人のものになり、心のメロディも健やかになり喜びも強まる、と言っている。
『天と地』
『天と地』(1964年、63才)では、「わかる」ということについて考えを深めている。まず、人が「有る」という感覚を持つその持ち方には二種類があり、一つは「疑うことなしに有ると思える」ことで、もう一つは「確かめる作業を通して有ると思えること」だと言う。前者は根拠を離れた確信であって積極的性質ものと言え、後者は一旦疑った上でそれを否定する形式をとる消極的性質のものと言える。
岡は前者のわかり方が本当のわかり方であり、目標にすべきだと主張する。例えば人間関係においても、真に強く結びついている人々は疑ったり確かめたりしないで、根拠のない信頼の上に成り立っている。そのようなわかり方を目標にして努力するうちに、疑う必要のない確信が徐々に強さを増していく。それは確信への直観を磨くことであり、真善美にだんだん近づくものだと説いている。
『数学を志す人に』
『数学を志す人に』(1963年、63才)では、「疑うことなしに有る」と思える直観的なわかり方が、数学の研究においても重要だと述べている。岡が中学生のころの体験で、試験時間のあいだ一生懸命に解答を確かめている時には決して誤りに気がつかないのに、試験が終わって教室を出た途端に、間違いに気づいたそうだ。こうしたことから、緊張が解けて心がよく澄んだときにだけ射すような知力の光があると言っている。
後半では、戦中・戦後の世相について、「調和の精神なしに科学を発達させたことが誤りだった」と指摘し、科学技術の発達は実のところ人類にあまり利益をもたらしていないと主張している。こういう箇所も、自然科学者だったらむしろそうは思わないような考え方であり、興味深い。
『春宵十話』
『春宵十話』(1963年、62才)では、上述の論点についてより包括的に持論を展開している。
今の教育について、「早く育ちさえすれば何でもよい」と思って育てているのが実情であり、間違っていると指摘している。とくに、今の教育では思いやりの心の育成を省いており、十代二十代の子どもの情緒が損なわれていると警鐘を鳴らしている。
“成熟が早くなるということに対してもっと警戒せねばいけない。すべて成熟は早すぎるよりも遅すぎるほうがよい。これが教育というものの根本原則だと思う。”
数学(あるいは科学)の学び方については、確かさを信頼して一歩ずつ前進することが大切で、このような学び方ができるかどうかは、小手先の技術の問題ではなく、道義の問題だと言う。だから、ある程度「人間」が出来ていなければ何も学ぶことが出来ないと説いている。
『かぼちゃの生いたち』
『かぼちゃの生いたち』(1964年、63才)では教育を論じている。教育をするためには人の発達の仕方を知らなくてはならず、それは未だ何一つとして分かっていないと断ったうえで、「道義」と「理想」の二つが重要だと言う。
道義も馴染みがない言葉だが、他人の感情を理解し、他人の喜ぶことを行い、悲しませることをしないことを意味している。岡自身は祖父から道義を教えられた。それは端的には「人を先にし、自分を後にせよ」ということになる。また、岡の父は、岡を学者にするつもりで幼少から育てたので、お金の勘定を一切させなかったという。こうした子育ての結果、物質的欲望を全然持たず研究以外のことには無頓着な、岡の人格が形成されたと言える。
また、岡は、人は「理想」があることでそれぞれが望む進路を自ら選択できるようになると言う。理想は真善美に向かう心の働きであるから、子供が理想を持てるように育てることが大切だと説いている。
『数学と大脳と赤ん坊』
『数学と大脳と赤ん坊』(1964年、63才)もまた教育論だが、その一方で、西洋科学や現代文明への批判的な要素も含んでいる。岡は、科学を生んだ西洋文明は観念的に過ぎると言い、そこには「人」の存在が抜け落ちてしまっていると批判している。科学は実験や論理的推論によって自然法則を見出すものであり、その世界像からは人間が捨象されている。岡の言葉を引く。
“いったい、数学をするとか、教育をするとか、またされるとかいっても、人が数学をし、人が教育をし、またされるのである。これははっきりした生理現象である。(中略)しかし西洋の考え方はこの中から「人」を抜き、観念にたって議論しているにすぎない。”
また、現代の科学文明では物質的には豊かになったが、そこには「人」が抜け落ちてしまった結果、ものの良さを味わう能力が退化していると言う。例えば、食べ物の味、風景の良さ、日本の良さといったことをしみじみと味わう能力のことを言っている。
最後に、現代の文明は「意思を中心とした文明」であり、力強いものが良いとされているが、そのような力の文明は野蛮だとし、その対極として考えられる「力によらない文明」に積極的な意義を認めている。
“戦争をしないことを平和だと思っているが、そんなものは形だけで内容がない。調和があるものをこそ平和というべきで、平和それ自体はそれなりの内容をもっているのである。”
『ロケットと女性と古都』
『ロケットと女性と古都』(1964年、63才)では、ギリシャ時代を真善美や理想がわかっていた時代とし、対してローマ時代はこれらが失われて軍事や政治が重んじられた時代だと整理したうえで、現代世界がローマ時代に似通ってきていると警鐘を鳴らしている。
“ローマ時代の特徴は、一口にいうと真善美それ自体がわからなくなってきた時代である。ギリシャ時代は真善美がわかっていた。理想を大事にし、知性の実践をやってきた。知性の自主性のあるのはギリシャだけである。それに反してローマ時代に尊ばれ、重く見られたものは軍事と政治である。”
次に、真善美へと向かう働きである情緒と、科学文明によってもたらされた物質的な利益を比較して、情緒の存在は確かだが、物質的利益の存在は不確かだと言っている。科学による物質的な利益に浴している現代人にとっては、「物質的に豊かになるのだから良いに決まっている」と思いがちだが、岡が言う「良い」とは真善美に向かうかどうかということだ。ここでも岡の言葉を引用しておく。
“情緒というものは確かに存在する。しかしロケットを月に打ち込む、つまり人の頭の機械的な働きが功利的に利益をもたらすということは、実在するかどうかあやしい。利益は一応もたらしても、だからいいとはいいきれない。”
『日本的情緒』
『日本的情緒』(1963年、63才)では、急速に壊れて失われつつある日本的な情緒の均整について書いている。
岡は、日本において「善行」とは、少しも打算を伴わず、分別の入らない行為のことだと言う。なぜなら、全く私意私情から離れることができればそれだけ大自然の純粋直感のみが働くことになり、決して誤ることがないからだ。日本人にこうした直感が大変よく働くのは、日本人が共通して懐かしむことのできる悠久の歴史を共有していて、その中で前述の「日本的善行」を古来行ってきたために、極度に心が澄んでいて、一体的な紐帯で結びついているためだと説明している。
この純粋直観(岡は仏教用語を用いて真智と呼んでいる)を曇らせる要因には二つあると言う。一つは、これも仏教用語を用いて邪知と呼んでいるが、自他を区別する先入見のことで、これがために人は自他の不公平に煩悶し、悪いのは自分ではなく他人だと思ったりする。もう一つは妄智と呼んでおり、これは疑いを持って確かめようとする心の働きである。得失に関する計算を行うことも含んでいるし、さらに岡は、数学における論理や計算も妄智の一種であるとして退けている。論理や計算は数学の本体ではないので、「論理や計算なしの数学がやってみたい」と面白いことを言っている。
岡は、昔の日本人には実によく智力が働いたのであり、それは先に書いたように古くから「日本的善行」が行われたおかげでだんだん情緒が美しくなり、他の情緒もよく分かるように発達してきたためだと言う。そして、長い時間をかけて形成された日本的情緒こそ日本の国の中身そのものだと言っている。
しかし、近年の教育の失敗によって日本的情緒は急速に消えつつある。教育の中に動物性(強い個体が良いという考え)や闘争性、残忍性が入りこんで悪さをしている。このような酷い教育を三十年も続けると国が滅びてしまうと警告している。
『物質主義は間違いである』
『物質主義は間違いである』(1968年、67才)では、人がその中に暮らしている自然には、物質的な自然(時空間があってその中に自然があるとする、自然科学的な自然観)と生命現象的な自然、つまり人の心の中に存在する自然(岡は仏教的自然と呼んでいる)の二種類があると言い、生命現象的自然をより本当のものだと考えている。
そして、科学では生命現象的自然を解明することはできない。なぜなら、科学が拠り所とする理性の働きは「一歩ずつ確かめてわかる性質」のものだが、生命現象は瞬間的にわかる性質のものだからだ。例えば、目を開けば一瞬で視覚に映るし、立ち上がろうと念じれば瞬時に体中の夥しい筋肉組織が統率して運動する。科学では、生命現象的自然(つまり人が実際にその中に住んでいる自然)のことは何も分からないことになる。岡は、物質的自然に対しても、科学で解明できるのはごく一部であると考えていて、科学への懐疑を表明している。
『宗教について』
『宗教について』(1963年、62才)では、岡が宗門に入った動機を振り返り、宗教的世界にも理性的世界にも居場所を得られない自己を顧慮している。その理由は次に述べるとおりである。
まず、理性的世界には自他の対立があり、理想や向上のある世界だが、その中で人は、生きるに生きられず、死ぬに死ねない悲しみにも直面する。そうした人の世のあじきなさ、さびしさから救われるために、人は宗教の世界に足を踏み込むのだと言う。
対する宗教の世界には自他の対立がなく、安寧の世界であるが、そのために理想も向上もない世界である。そして岡は、半ばどっちつかずの気持ちが、両方の世界に留めおくのだと弁明している。
『六十年後の日本』
『六十年後の日本』(1965年、64才)は、上に述べた『日本的情緒』の延長にある小品である。学生全員を試験得点というモノサシに乗せて扱うこと、その制度的現出である共通一次試験を批判し、六十年後の日本を憂いている。学力競争は間違っていると言っている。
『人とは何か』
『人とは何か』(1969年、68才)は、このエッセイ集の末尾を飾る作品で、執筆年代としても後ろに位置する。岡の主張には共感する面も多いのだが、他方で馴染みの薄い仏教教説を援用し、真偽不明の生理学的見解を乱用しているために、一方的で読者を寄せ付けない印象を受ける。狂信的な印象と言ってもいい。岡の言わんとすることは、何もそんな高邁な教説を持ち出さなくても十分伝わるのではないかと思う。
岡はまず、自然科学をもってしてわかるのは物質現象のことに限り、しかも極一部分に限るので、完全な無知と大して違わないと言い、仏教教説の優位を説いている。
次に、「無私の心」が確かに存在することが説かれる。秋風が吹けば誰でも物悲しく思うことを例示して、人々の心には共通して影響を受ける一領域があり、それを「無私の心」と呼んでいる。
その次に、無私の心と労働の関係が書かれる。労働には自ら作ることで得られる充足感(「自作自受」と呼んでいる)があり、それが百姓の農作や工場の組み立てなど様々な場面に見られると言う。さらに、学問や芸術活動も自作自受でなければ本当ではないと言う。
最後の一文は、岡があるべきと考える教育の姿を具体的に示している。
“小、中学校で何よりも民族の詩としての日本歴史を教えなければなりません。また国語はこの国の濃まやかな人情を教えなければなりません。又千変万化する日本の美しい自然をよく心に反映することを教えなければなりません。”
3.終わりに
いかがだったでしょうか。科学者でありながら科学を否定する。西洋文明を野蛮だとする。数学を研究していながら論理や計算を否定し、直観や情緒を重んじる。戦争には断固反対でありながら国粋主義的でもある(実際には全然矛盾ではないのですが)など、岡潔の思想には今日の常識からすると逆説的で興味深い視点がいくつもあることに気づくでしょう。私がここに岡の思想の一端を紹介したのは、これを旧弊な珍説として嘲るためではなく、むしろ現代社会の矛盾を鋭く衝いており、耳を傾けるべき言説だと思うからです。
戦争について~パレスチナとイスラエル
2023年10月7日、パレスチナの支配勢力ハマスがイスラエルに奇襲攻撃を仕掛けて武力衝突が勃発した。ハマスはイスラエルの都市にロケット弾を撃ち込み、多数のイスラエル民間人を殺傷・拉致した。これに対してイスラエルはガザの北部から南部へと激しい空爆と市街戦を展開している。一時は人質の一部解放や数日間の停戦などが実現し、事態が幾分改善に向かうに思われた場面もあったが、現在でもイスラエルはハマス(もはやパレスチナ?)殲滅の方針を堅持しており、激しい戦闘を続けている。
ロシアのウクライナ侵略に加えてガザで紛争までも起こり、テレビで日常的に戦況を耳目にするにつれて、戦争が身近に感じられる時世になった。僕としても思うところを書いておきたい。誤りや認識違いも多いと思う。もとより専門家でも何でもない者の拙論だが、書くことが重要だ。もし専門家などがいるのであれば戦争などとっくに終結しているのではないだろうか。
【見出し】
戦争が起こる理由
戦争はなぜ起こるのだろうか。
まず、自己拡張や新たな権益獲得の欲望によって生じるものがある。例えば、今も続くロシアのウクライナ侵略があるし、18~20世紀の西洋列強の植民地支配が挙げられる。太平洋戦争にもそうした側面がある。アメリカのインディアン征服、メキシコやフィリピンとの戦争。中国の東シナ海・南シナ海への拡張意欲など。
自衛の戦争。例えば、ロシアの南下を阻止した日露戦争。
奪われたものの回復、怨恨の連鎖によるもの。今度のハマスとイスラエルの戦争がこれにあたると考える。少し長くなるので次節に書く。
相手勢力の抑制を狙うもの。ガザ紛争の歴史を繙くと、オスマン帝国の弱体化と石油資源の獲得を目論んで、イギリスが帝国内騒乱を誘導した側面もある。
ガザ紛争の歴史的経緯
1922年に滅亡したオスマン帝国は、古来より多民族共生型の国であり、アラブ人とユダヤ人も平和に共存していた。西洋の数千年にわたってユダヤ人を迫害した歴史を思えば、オスマン帝国はユダヤ人に対して優しい国だった。
そこにイギリスが石油資源欲しさにオスマン帝国内に騒乱を醸成した。アラブ人とユダヤ人の双方に対して単一民族国家の樹立を約束する二枚舌を使い、双方の敵対心を煽り戦わせたのだ。
第二次大戦が終わると国際連合がイスラエルの建国を承認。一方、アラブ人国家の建国の約束は反故にされた。思うに、ドイツのユダヤ・ホロコーストを始め、数千年にわたる西洋のユダヤ人迫害を行ってきた西洋の、ユダヤ人への罪滅ぼしだったのではないだろうか。アラブ人は自らが永年暮らしてきた土地に続々とユダヤ人がやって来てわがもの顔するのを当然不愉快に思い、憎悪が高まっていった。
イスラエル建国を皮切りにヨーロッパからユダヤ人が続々移住。元々西洋で大資産家だったユダヤ人なども移住してきた。いったいユダヤ人は富や権利に強かなところがあり、アラブ人から土地を巻き上げいき、アラブ人は徐々に辺境に追いやられていった。なお、こうしたやり方は、アメリカ新大陸でインディアンから土地を「合法的に」巻き上げた開拓民の手口にも類似したものがあると思う。
「自国内」で徐々にプレゼンスを高めていくユダヤ人に対するアラブ人の反感が高まる。アラブ人が武力蜂起するが、イスラエルの反撃にあい、かえって領土を奪われて隅に追いやられていった。イスラエルの背後には強大なアメリカ始め西洋諸国が味方にいるのだから当然の成り行きだ。
そうして隅に追いやられ、イスラエルによってテロ防止を名目に壁で包囲されて、現在のガザ地区が出来上がった。アラブ人は「この世の棺桶」と形容される劣悪な環境に閉じ込められてしまった。
終わらない憎悪の連鎖
こうしてガザ紛争の歴史を振り返ってみると、「憎悪」や「奪われたものの回復」といった要素が強く絡んでいる。そして、一方の主体の憎悪や喪失回復への欲求が向かう先の主体には、また別の憎悪や喪失回復への欲求があり、これらが止めどなく連鎖している。そのため、戦争の原因といったときにそれが一体何なのか、そしてどちらが(誰が)悪いかを断定することは非常に難しい。
過去度々ガザの武装勢力がイスラエルを攻撃してきた背景には、ユダヤ人に自分たちの土地を奪われたアラブ人の憎悪がある。その一方で、ユダヤ人がアラブ人を排除する背景には、聖書に記されて数千年ぶりに国土を回復したユダヤ人の悲願や(正直、2000年前の真偽も分からない文書を根拠にされても、という気がする。)、ドイツによるホロコースト、ひいては数千年にわたりヨーロッパで迫害されてきた怨恨がある。そこに、アラブ・ユダヤ双方との建国を約束したイギリスの悪意が絡んでいるし、イスラエル一方のみの建国を承認し、パレスチナを軽んじた国連の責任もある。
このような中で、誰が悪いのかを言うことはもはや難しい。イギリスの二枚舌外交や、ヨーロッパにおけるユダヤ迫害については、悪いには違いないだろう。しかし、責任の取り様もない。
戦争を起こさないためには
戦争を回避するにはどうしたらよいだろうか。上で戦争の起こる背景をいくつか挙げたわけなので、その防止が戦争回避につながるのだと、論理的には一応言える。しかし実際はどうだろう。
自己拡張の意欲を持たなければよい。しかしそうは言っても現実には、拡張意欲に燃える国々が存在している。ロシアや中国の場合には、領土拡張欲であるのにも関わらず「歴史的には自国領だった」などと主張している。このように、拡張欲であるかどうかは証明が難しい。また、国連も機能していないため、拡張欲を防止するパワーが世界に事実上存在しない。
また、「奪われたものを回復」をせず「憎悪」を持たなければ、戦争を食い止められるが、侵略された方が割りを食うのはやはりおかしい。侵略に対する反撃は民族としての尊厳を維持・回復しようとする活動であり、反撃しないとその民族は消滅してしまうので、反撃することには充分意義がある。
自衛の戦争についても同様であり、侵略を黙認したら自らは絶滅してしまう。
他の勢力同士を戦わせるように仕向けない。これも防ぐことは難しいでしょう。
最後に
卑近な話で、会社や学校の人間関係においてさえも憎悪や喧嘩を完全にはなくならないのだから、戦争自体を無くすことは不可能だろう。そこで、勃発した時にいかに食い止めるかが重要になる。
こちらからは戦争を仕掛けない、挑発などもしないよう決意すること。他方で、向こうから戦争を仕掛けられたときにはきちんと守り抜けるように準備しておくこと。
そのためには、産業・学術・軍事・文化といった国力を高め、悪意を持つ他国に侵略する気を起させないようにする必要がある。
同時に、多くの国々との信頼関係を構築し、紛争が生じたときにこちらを理解してもらえるような関係作りが大切だろう。ガザ紛争では、イスラエルが西洋諸国から正当な国家として扱われる一方で、パレスチナの人々は西洋に理解されず世界から孤立してしまった。そのため、話合いではもはや何も解決せず、武力行使しか解決の方法がない状況に追いつめてしまった。
平和で未来に希望が持てる世の中の到来を心から祈っています。
参考文献
1.『近代イスラームの挑戦(世界の歴史20)』山内昌之著、中央公論社
2.映像の世紀バタフライエフェクト「砂漠の英雄と百年の悲劇」
立川散歩
見出し
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11月24日金曜のこと、立川の昭和記念公園に紅葉を見に行ってきました。
立川駅は、構内を一直線に貫く通路や歩行者デッキが、何となく大宮駅を連想させますが、規模が大きくはるかに賑わっています。その立川駅の北口を出ます。風のない穏やかな晴天で、歩くと汗ばむ陽気でした。
シンボパン
公園で食べようと思い、『シンボパン』でパンを買いました。路地から半地下になった店内は、ご夫婦で営んでいるような温かみの、ひっそりと落ち着いた雰囲気で、奥がカフェになっているようでした。バインミー、クロックムッシュ、アンコバター入りのコッペパンを購うと、入口の横の小窓から手渡してくれました。
バインミー(ベトナム風のサンドイッチ)は目玉焼きと豚肉の二種類ありました。十年ほど昔に旅行先のホーチミンで食べた、フランスパンを使ったサンドイッチのなんとも美味しかったことを思い出しました。
モノレールの通りはのんびりした遊歩道になっていて、カフェやレストラン、美術館、デパート、ホテルなどが集まっています。平日とあってGREEN SPRINGはひっそりとしていました。それにしてもモノレールが細い高架の上を支えなく走行する様子は、まるでサーカスの綱渡りの曲芸のようで、見ていて冷や汗をかきました。
GREEN SPRINGS(グリーンスプリングス) | 空と大地と人がつながるウェルビーイングタウン
昭和記念公園
昭和記念公園の入り口までがそこそこ距離があり、歩きます。入園料は大人一人450円、11月~2月の開園時間は朝8:30から夕方16:30までとなっています。
門を潜ると、水路の左右のイチョウ並木は鮮やかに色づいて、地面は落葉で山吹色に染まっていました。早速ベンチに座ってパンを食べました。さっくりした食感の美味しいパンでした。
元気が出たところで散歩を続けます。「シュッシュッ」と音を立てて蒸気機関車に似せた運行バスが通り過ぎて行きます。少し行くと正面に池が見えてきたので、左に折れて時計回りに行くことにしました。
園内には立派な木々が多く、それらが紅葉した色合いも味わいがあり、そうした景色の中を歩くのは楽しいものでした。なかでも陽の光を浴びたメタセコイアの葉が茜色に輝く様子が綺麗でした。
園の西側、昭島口近くのイチョウ並木にやってきました。人気のスポットで人々で賑わっています。
そして『こどもの森』を過ぎ、『日本庭園』にやってきました。結構距離があり足がくたびれました。
日本庭園は池の周りに散策路があります。盆栽園や菖蒲田、雪吊りの松、池の際には飛び石などもあります。また、池に突き出るようにして東屋があり、庭園を一望できます。
日が暮れてきました。帰りは原っぱを抜けて立川口まで最短路で行きます。広々した原っぱには大ケヤキがあり、よい目印になります。16時を過ぎて閉園のアナウンスがこだましていました。
門を出ると夕空には少し欠けた月が浮かんでいました。
エミリーフローゲ
その後、駅前のカフェ『エミリー・フローゲ』でカフェオレを飲んで帰りました。おいしそうなケーキがショーケースに並んでいたのですが、食べずに出てしまい少し残念でした。洒落ていて落ち着いたカフェでした。
どんぐり拾い
十月二十八日土曜のことである。伊奈*1のバラ園で秋の薔薇を見て、隣の公園の雑木林を散歩していると、木の下にドングリが、ぶちまけたように散らばっている。紙風船のように丸々した、あまり見ない形のどんぐりだ。夢中で綺麗なものを選りすぐった。その様子を少し離れたところから妻の冷ややかな眼差しが眺めていた。
雑木林の別の所では、かなり球体に近いものや、弾丸のように細長いもの、銀杏くらいの小さなものなども見つかり、ポケットの中が賑やかになった。雑木林のそこかしこに宝物が落ちているような気がして、集めるたびに幸せな気分になった。
どんぐりはテレビの前の机の上の小皿の中に並べておいた。妻は、汚いから密封型のポリ袋に入れてと言ったが、ずいぶん味気ないことを言うと思い、しぶしぶ入れたのは拾ってから二、三日経ってからだった。
袋に入れてから数日経つとどんぐりに変化が現れた。水分が蒸発してしまったのか、表皮がパッカリ割れてしまった。緑色と黄色が微細に交じり合ってあんなに美しかった表面も、すっかり輝きを失ってしまった。自然物の生の美しさをそのまま手元に置いておくことの無理。
それからさらに十日ほど経って十一月の中旬になった。袋詰めのどんぐりはやはり皿の中にあったが、もう注意を向けられなくなっていた。ふと思い出して手に取ると、どんぐりの底部は黴に覆われて、外れた笠は風化したように崩れていた。ゴミ袋に捨てた。
以上で、久しぶりに童心に帰ったどんぐり拾いに関する顛末を語り終えたかに思えたが、まだ続きがある。
十一月二十三日の夜だった。どんぐりの入っていたあの皿の内側に、大豆ほどの大きさの白い塊があった。丸々した米俵のような表面の、顔だけがポツンと黒い芋虫だった。翌朝起きて見てみたら位置が変わっていた。
不思議なのは一体いつどのようにどんぐりから出てきたのかということ。どんぐりは先に書いたように、拾って数日後には袋に密封したのだから、皿に出てきたのはそれ以前ということになる。仮にそうだとして、餌も何もないのに約一か月ものあいだ生きて、目に見えるほど大きく育ったのも不思議なことだ。
僕も妻もあまり虫に愛着がないのでベランダから捨ててしまったが、一体どんな虫に変態するのだろうかと想像しながら育てることは、僕にもう少し童心があれば大変ワクワクすることのような気もした。
インターネットを見ていて実際に育てた人がいた。芋虫は一年間も土中で暮らし、成長して出てきたのはゾウムシだったとのことだ。
7年ぶりの投稿
長い間うち捨てられていたブログに、実に六年半ぶりに戻ってくるとは、一体どんな気まぐれだろう。事実三日前にはそんな考えは少しもなかったのに。
これをきっかけに継続的に記事を書いていくことになるのか、それとも再び長い空白期に帰るのか、今のところ僕には予想がつかないのだが、こんな投稿をするにいたった経緯については一応説明しておきたい。
ブログの放棄
文章を書くのが元々苦手で面倒になったということも一つだが、外に向かって書く必要がなくなったから、というのが最も適当だ。
当時、僕が物を書く場所はこのブログしかなかったが、読者に向けてあるていど普遍性のありそうなことを書くには良いが、身の回りの個人的な事情を書きたいときには困った。読者にとっては興味もなく面白くもないだろう。また、個人情報を秘匿する必要があるため満足に書けない。そうであれば自分で日記をつければ良い。
日記を書く
そうして日記を書く日々が始まった。実はブログを放棄する半年前ほどから書き始めて、七年のあいだ一日も休まずに続けている。
そのおかげで文章を書くことの苦手意識はなくなった。しかし、やはり得意ではないのは昔のままだ。適切な言葉がなかなか見つからず、書きあげるまでにはかなり手こずる。
日記を書く面白さについてはまた別の記事で書いてみたい。
日記とブログの併用
ところで日記の文章は一日毎の短い時間的な区切りに納められている。日記は日々の記録であり、偶然生じた出来事や感興を生け捕りにする。それは必要だが、他方で、数日がかりで執念深く追求するような、ある程度大きな纏まりのある内容を書くには全然向かない。
日記を書くようになると、日記の中で色々表現を追求できる一方で、日々の記録に追われ、じっくり腰を落ち着けて考えることがかえって少なくなったように感じている。
そんな折にふと昔のブログを見てみたら、稚拙ではあるが、自分の持っている物だけで一生懸命頑張って書いていた感じがして、なんだか晴々しかった。普遍性のある記事を書こうとしたお陰で、今でも古びていない記事も多いように思う。
今後の方針
今後ブログでは随筆や論評といったタイプの文章を書く場所として活用していこうと考えている。
新装にあたりタイトル変更を以下のように変更する。旧『タケウチCarlの地平線』→新『カールの曲がった地平線』
最後に、放置してあった間も毎日数人程度の方々が訪れて下さっていたようで、全く有難い限りである。