カールの曲がった地平線

都内在住31歳の独身サラリーマンが、日々木工や読書、散歩などを楽しみつつ、いつか脱サラして小屋暮らしや旅暮らしをすることを夢見るブログ

抽象と具象について~2つの反対向きの方法~

抽象・具象とは何なのか

「あの人の話は具体的で、様子がありありと目に浮かぶ」とか、「抽象的で何を意味しているのかまるで分からない」といったように、抽象的・具体的(具象的)という形容を自然にする。


しかしながら、この抽象的・具象的というやつは一体何なのだろうか。こういうのは、単に定義を与えさえすれば解決するものではないということはまず言える。なぜなら、定義をする・しないという以前に、ある事柄が抽象的か具体的かを直観的に感じることができると思うからだ。


「抽象的(具体的)に感じる」という心的な現象がまず先にあるのだから、できるのはそれを観察して捉えることだ。すなわち、抽象的・具体的というのが当てはまる様々な状況を思い浮かべ、そこから特徴を捉えていくことだ。

抽象・具象の特徴

抽象的・具象的に関係した様々な事例:

  • 言葉や数字、文字といった記号を使い、あるものをそれとは別の何かで表現することは抽象的に感じる。一方で、内面的な感情を表情で伝えたり、花束によって愛情を示したりすることなど、何かを別の何かで表しているにもかかわらず具体的に感じるものもある。
  • 個々のものの集まりを、それ自体一つのものだと取り扱うことは抽象的に感じる。概念というのもそうだ。これは個体の違いを無視して、同じグループに属しているかどうかを認識する働きだ。例えば、犬の一匹一匹はそれぞれ異なっているけれども、どの犬を見てもそれを犬だと理解できるのは、「犬はどういったものか」というグループとしての犬についての見解があるからだ。
  • 公式、定理、法則といった、多くの場面において適用することができるように鋳型められたものは抽象的に感じる。反対に、個別の状況において、公式(または定理、法則)が当てはまっていることを確認するのことは具体的な働きに感じる。
  • ある特定の観点のみを残し、その他を捨象することは抽象的に感じる。この働きと、二つのものの類似性・相違性を把握する働きは関係があるように思われる。
  • あるものの構造というように、複雑な物事について、あまり重要ではない観点を捨象し、類似の物事を一つにまとめるなどの簡略化を行って、物事の関係を見出すことは抽象的に感じる。


このような事例は、全て正しいといえるものではない。


抽象・具象についてはとても一言で言い表せるものではないが、こういった事例から僕が最もしっくりくる説明をつけると、大まかに言って、抽象とは類似性(共通性)をみつける働き、具象とは特異性(相違性)をみつける働きだといえる。


このような、ある意味正反対のアプローチが存在すること、これ自体が面白いことだ。

抽象・具象は程度の問題なのか?(脱線)

初めて出くわしたときには抽象的に思えても、使っているうちに次第に具体的なものに思えてくるのは面白い経験だ。


例えば、

  • 犬が2匹いる、鳥が2羽いる、猿が2匹いるということではなく、個々の動物を離れた「2個」という数字の概念を習得すること。
  • 数字の間の関係を認識し、具体的な数字の演算を理解すること。例えば、小学校低学年のときに、九九を必死になって覚える。
  • 数字の計算について、具体的な数字を離れた、数字を代表するところのものであるXの計算を習得すること。
  • 数字の計算について、足し算や掛け算といった具体的な演算を離れた、群・環・体・ベクトル空間・加群などの代数系を理解すること。


上から下に進むごとに抽象度が増してくるが、一度理解してしまうとなぜかもう抽象的なものとは感じられなくなる。このことが、抽象的・具象的というのが階層的であることを意味するのか、それとも、単に慣れの問題であり、人間は慣れ親しんだものを具体的だと思うというだけなのかは分からない。


僕自身は後者だと思っており、抽象的か具象的かは、結局は個人の印象としてそう思えるかどうかだという気がする。

抽象的、具体的という二つの方法

物事を考えたり、心情を表現したり、これらを他人に伝えたりといった活動をする場合に、二つの方法をとることができる。一つは具象的な方法、もう一つが抽象的な方法だ。

具象的な方法

全体に共通する性質を離れて、むしろ全体の中で個々を特徴づけている性質を追究する方法。個別の特殊事情を重要視し、そのものをそのものたらしめているものを追求するために根本的なものとなる一方で、他と共通する普遍的性質に由来する観点が抜け落ちてしまう。

抽象的な方法

個々の要素を離れて、全体に共通するような重要な側面を抽出し、余計な要素を取り去る方法。個別の特殊事情(ノイズ)を捨象するため、特殊事情によらない普遍的なものになる一方で、そのものの特殊性に由来する観点が抜け落ちてしまう。

例:絵画における具象、抽象

沖縄の離島かどこかに行って夜中に頭上を見上げると、真っ暗闇の中に満点の星空が広がっていて、感動して息をのんだとする。この感動を絵にして伝える場面を想像して、上の二つの方法を考えてみる。


まず、具象的な方法をとるならば、個々の星々の位置、明るさ、色といった特殊事情を正確にキャンバスに再現することになる。それで、ちょっと知識のある鑑賞者がこの絵を見れば、一体どこの場所から見た夜空なのか分かるし、夜空が本物そっくりに描かれていれば、この絵を見てまるで本物の夜空を見たかのような感動を得ることもできるかもしれない。


ところがこれには問題もある。一つは、本物を精緻に描き写すということは、あくまで模造品を作るに過ぎないのであって、作成者が特にどの部分を強調したいのか、とか、どの部分に感動したのか、といったことが全く抜け落ちてしまうことだ。


二つ目には、製作者が表現したいと思った「夜空を見た時の感動」は、果たして星々の正確な位置や明るさ、色といった事情に由来するのだろうか?ということだ。もしかしたら単純に、暗闇にたくさんの星が散らばっている様子に感動したのかもしれない。もっと単純に、一面の黒に細かい点々があるという様子に感動したのかもしれないし、一層単純に、黒白の色のトーンに感動したのかもしれないし、点がポツポツとしている形に感動したのかもしれない。


こうして、製作者が表現したいと思ったこと、感動したことを追求していき、これらに焦点を絞ってそれ以外の特殊事情を捨て去っていくと、抽象絵画に向かっていくことになる。しかし、これはこれで問題が生じる。特殊事情を捨て去ったがために、鑑賞者から見ると、あまりに抽象的すぎて一体何が描いてあるのか分からないということが起こり得るからだ。

最後に

抽象とは類似性(共通性)をみつける働き、具象とは特異性(相違性)をみつける働きだと言える。しかし、どうしてこのような反対の方法が存在するのか、そもそもどうしてこんな精神の働き方が可能なのか、不思議だ。


また別の観点としては、普通はどうしても抽象的なのが難しくて、具体的なのは分かりやすいような思い込みがあるが、これは本当なのかどうかということ。


例えば、素人にはどれも同じように見えるが、玄人はその中の相違点を見破るということもある。こういうことは色々考えられて、ひょっとすると、抽象的な考え方に次第に慣れていくのと同様に、具体的な考え方にも徐々に慣れていくものなのかもしれない。